ここ最近、ずいぶんとぼんやりしていたような気がするところにいきなりで結構驚いた。
その医者が淡々と口にした言葉に聞き覚えがある。
その後もなにやら色々と話し続けていたのを適当に聞き流して病院を出た。
それだけ聞けば充分だ。
帰り道、午後の光がまぶしくて顔をあげると広がる青さがひどく目に染みる。
空は色を濃くしながらやがてくる苛烈な季節に備えているようだ。
ああ、そういえばもうアレがいなくなって半年か。
退屈が嫌いなアイツの事だからそろそろ耐えられなくなったんだろう。
これは多分そういう事なんだろう。
勝手にいなくなったくせに随分と我侭な奴だ。
もっとも出会った時からそうだったからそんなヤツと付き合っていた自分の方が
物好きと言うべきなのかもしれない。
また顔を合わせる事になるんだろうか。
時々うんざりさせられたりもしたけれど、アイツといる間は退屈した事がなかったからまぁそれも悪くない。
特に苦労してここに留まる理由もないように思えたからそれでいいと思った。
渡された封筒が邪魔だったので帰る途中でそのまま捨てた。


差し出されたグラスを半ば無意識に受け取ってからそれが冷えた水だと気づいた。
飲み干すと喉が渇いていたせいかやたら美味い。
久しぶりにそんな事を思ったなと考えていると再び手が差し出されて空のグラスを持っていく。
顔をあげると不機嫌そうな奴と目が合った。
それで検査結果はどうだったんですか?
唐突にそんな事を聞いてきた。
面倒くさくてソファにもたれ直しながら医者が言ってた台詞をそのまま繰り返す。


ガラスの割れる音がした。
見ると何だか凄い顔をして奴がこちらを見ている。
欠片の散らばった床の上で両手をだらりと下げ突っ立ったまま動かない。
安っぽいドラマによくこんなシーンがあるよなぁと少し可笑しくなって笑ったら、
途端に泣きそうな顔をした。





昨日とは打って変わって空は一面鉛色だ。
暗い色をした雲が低く低く垂れこめてなんだかもう少しで押し潰されそうな圧迫感がある。
そろそろ梅雨のはずだからきっとこれからうっとうしい雨が続く。
それもどうでもいいけれど。
強い風のせいで煙草になかなか火がつかなくて舌打ちをする。
この使われなくなった建物は少し高台にあって屋上からの眺めがいい。
手すりにもたれながらぼんやりと空をみていると、
風に吹き散らされた泣き声が途切れ途切れに聞こえてくる。
ひどく子供じみたその泣き声はほうっておくにはいささか五月蝿い。
仕方なしに振り向くと、声の主は床の上に座り込んでしゃくりあげている。
こちらが振り向いたのに気が付くとその短くした金髪の頭を上げた。
そしてオレは絶対ずっと側にいますからねと怒ったようにかすれた声で繰り返す。
もともと泣き虫な奴だと思っていたが、
考えてみたらこんなふうに涙を流して大泣きする姿は初めて見たような気もする。


きっとあの馬鹿の方はこんなふうに泣かないのだろうなと思った。
格好をつけてるのか素直でないのか生まれつきなのか、多分全部だろうけれど。
目を見開いてまるで思いもかけず殺される人のような顔をしていた。
それでいて叫び声のひとつもあげず黙っている。
自分の時はどうだったのだろう。
多分似たようなものだったんじゃないかと思うと少し嫌な気分になった。


そんな事を考えながら黙って煙草をふかしていると家に帰りましょうと泣きながら袖をひっぱってくる。
先刻よりも強くなってきた風に雨が混じり始める。
いい歳をして本当に子供みたいな奴だ。
ずっと泣き続けているからもう目のまわりが真赤に腫れている。
ああ、面倒くさい事は本当に嫌いなのだけど。
あられもなく泣いているその顔を見ながらため息をつく。
帰えらねーよ。
一言そう言って背を向ける。
するとなにか叫ぼうとするから、仕方なく言葉を続ける。


ポツリポツリとコンクリートに染みをつくりながら雨が本格的に降りはじめた。
眺めていた景色が白く煙っていく。いつまでもここにはいられない。
なのに相変わらず泣き続けているものだからホンの少し途方にくれて最後の言葉を口にする。


頼むから。










ある日、家へ帰ったら真っ暗な部屋の中でアイツがソファに座っていた。
黙ってジッと座っているものだから、最初は気がつかなくてびっくりした。
どうしたのかと声を掛けても返事がない。
いつも陰気な顔をしてる事が多いヤツだけど今日は様子が普通じゃない。
なんだか嫌な感じがしてあの人は?と聞いたら部屋で寝てると答えた。
半分ほっとしてもう半分はさらに不安になってもう一度どうかしたのかと同じセリフを繰り返したら
黙ったままテーブルの上を指さした。
市内の総合病院の名前が印刷されたちょっと皺になった封筒が置いてあった。


オレは頭が悪い。
その中の書類がどういう意味なのかなんて分からない。
だから教えてくれと頼んだ。
ひどく簡単で短い言葉で教えてくれた。
どういう言い訳をしたのか知らないがどうも直接医者から話を聞いて来たらしい。
決めつけたような物言いだった。
それが気に入らなくてそんな事わからないだろうと怒って言うと、同じ事だと言った。
あの人のやる気がないならばとつぶやいて口元を歪ませる。
この男もあの人も変な所で笑うのがよく似ている。


朝を待って部屋にいったらすでにベッドはもぬけの殻だった。
泣きながらあの人を探しまわる。
もしこのまま一生会えなかったらどうすればいいか分からない。
そう思うと涙が止まらなかった。
たいしてある訳じゃない心当たりをたどりながら街を彷徨う。
ふと涙じゃない水の粒が顔にあたった気がして上をみあげると
廃校になった高校の校舎の屋上に見覚えのあるシルエットが見えた。


何を聞いたらいいのか何を言ったらいいのか分からない。
ただ喉からせり上がってくる嗚咽がとまらない。
あの人はこっちに背を向けて黙って煙草を吸っている。
今目の前にいるこの人がいなくなるなんて絶対許せない。
でも誰に何を言えばそうじゃなくなるのかやっぱり分からなくて泣きながら嫌だ嫌だと言いつづけた。


気が付くとあの人がオレを見ていた。
仕方ないなといった顔でため息をつく。
ずっと側にいますからと宣言する。
お願いじゃない。
この人そういうの赦してくれないから。
何も言わずにいなくなる事、平気でするから。
邪魔だと言われてもこればかりは言う事を聞けない。
だってこの人がいなかったらオレは何をすればいいのか本当に分からない。


冷たいものが顔にあたる。
とにかくこの人を家に連れて帰らないと。
あの男も今頃きっと気が狂わんばかりになっている。
それなのに。
帰らねーよ。
そう答えて向こうを向いてしまう。
叫びだしそうになったのをあの人の声が遮る。
頼りになる知り合いがいるから相談しようと思うと。
驚いて聞き返す。
ちゃんと医者にかかってくれるんですね?
ああ。
病気、治してくれますよね?
それは医者に言ってくれ。
力が抜けてまた濡れた床に座り込んでしまった。
よかった。
火の消えてしまった煙草を捨てながらあの人がオレの前にしゃがみ込む。
だからいい子で大人しく待っててくれとオレの頭を撫でながら言う。
ああ、でもやっぱり帰らないんだ。
どうしてですか。会いに行っちゃだめなんですか。何処にいくのか教えてください。
その全てに駄目だとだけ答える。
嫌です。どうしてですか。会いにいっちゃだめなんですか。何処にいくんですか。
繰り返し繰り返し。
どうしも譲ってくれない事は分かってる。
それでも言わずにはいられない。
何度目かの繰り返しの時にあの人が小さな声で言った。
あの馬鹿と一緒にいてくれ。頼むから。


頼むからなんてそんな台詞初めて聞いた。



待っててくれとあの人がそう言ったのか。
ひどく落ちついた声でアイツがそう聞いてきたからそうだと答えた。
喉が痛くてうまく声が出なかったけれど。
そうかとだけ言うと黙り込んだ。
その静かな反応が意外な気もしたし、らしいなとも思った。


コイツが泣く所は一度も見ていない。



その代わりのように殆ど喋らなくなった。
オレも口を開けばあの人の事になりそうでなにも話す気になれない。
毎日毎日、朝仕事に行って夜家に帰る。
それをひたすら繰り返して日々を過ごした。
アイツは最初の頃はやたらと何処かへ出掛けていた。
何処に行くのか言わないからついていこうとすると来るなと言われる。
それでもついていったら怒鳴られた。
頭にきて睨んでやったら夜には必ず戻るからと言う。
その日もその後もちゃんと夜には戻ってきたからもう気にしない事にした。



一カ月たった頃、あの人そこいるからと2つ隣の県の名前を言った。
それでコイツが何をしていたのか分かった。
その後毎週土曜日には1日中出掛けるようになった。
何処へ行っているのかなんとなく分かっていたけど、
少しだけ不安になって一度後をつけていった事がある。
案の定、行き先は前に教えてくれた場所だった。
そこにある白い建物を囲む柵の側でただ黙って立っていた。
視線は建物の3階あたりの窓にずっと向いている。
その窓の向こうに何があるのかは遠くてよく分からない。
ただ白いカーテンが風をうけてゆらゆらしているのだけが見える。
ああ、あそこにいるんだなと思ったらまた久しぶりに泣けてきた。
やたら白くて大きくて味気のないその場所はあの人に似合わない。
隣の建物の陰に座り込んで泣いた。
泣いて泣いて頭が痛くなって泣きやんでぼーっとしていたら近くでクラクションが鳴った。
見ると車に乗ったアイツがこちらに向かって腕を振る。
なんだかバツが悪くて立ちすくんでいると、帰るぞと一言だけ言って窓を閉めた。


あれから3年。オレがあそこに行ったのは後にも先にもその1回だけ。
アイツが必ず毎週土曜日に出掛けていくのでオレはそれで十分だった。











朝起きるとリビングのテーブルには用意しておいた食事が昨夜と同じ状態で残っていた。
また食べてない。
ため息をつきながら皿の中身をシンクのゴミ箱に捨てる。
ここの所ずっとこんな調子だ。
たまに暑い日があったからすでに夏バテが始まったかとも思ったがここ最近は爽やかな日が続いている。
まったく勘弁して欲しい。
もう子供ではないのだからちゃんと健康管理ぐらい自分でしてくれよと思う。
そう言ったところで返ってくる返事は分かっている。
かまうな。
少しだけ眉をひそめてろくにこちらを見もしないでそう言い放つあの人の表情まで浮かんでくるようだ。
かまわなかったらいつまでたってもアンタどうしようともしないじゃないか。
半年前のあの人の様子を思い出す。
やっと落ちついてきたと思ってたのに。


夕方、部屋から出てこないあの人の様子を見に行く。
朝に覗いた時と殆ど同じ姿勢で寝ていたから一瞬嫌な想像をしてあわてて手をその首筋に伸ばす。
指先に感じられた体温はいつもより少し高い気がした。
名前を呼ぶと嫌々という感じで開けた目が潤んでいる。
何か食べられますかと聞くと喉の奥で何か言って再び目を閉じてしまう。
仕方なしに夜にもう一度起こしたが相変わらず食べられないと言うので無理やり水分と薬だけ取らせた。
明日の朝になっても熱がひかなかったら医者へ連れて行こう。


翌朝起きるとあの人がリビングのソファで寝ていた。
驚いて声を掛けると機嫌の悪そうな声でこちらのほうが寝心地がいいんだと言う。
毛布の一枚も掛けずに何言ってんですかと額に手をのばすと嫌そうに眉をひそめる。
熱は下がっていた。
ほっとすると同時にこれで医者になんぞ絶対いかないだろうなと思った。
不健康な人間ほど医者嫌いなのはどういう訳だろう。
ため息がでる。


そういえば半月ほど前にも同じような事があった。
その時は何でもないと言い張って熱さえ測らなかったけど。
それから一週間ほどたった頃、仕事中に携帯が鳴った。
あの人が倒れたと泣きそうな声でつっかえつっかえ喋る声が耳を打つ。


運び込まれた先の病院で検査を受けさせるのにやたら苦労した。
帰ろうとするあの人の足にあの馬鹿が縋り付いて頼み込むなんて事までしてやっと承知してくれた。
あの人に言う事を聞いてもらうには本人より子供になるのがいいのかもしれない。
検査結果が出るまでそのまま入院していて欲しいぐらいだったが
さすがに無理だったので家に連れて帰った。
ただの立眩みだの病院は嫌いだの悪態をつく様子はいっそ普段より元気に見えたがやはり顔色が悪い。
病院から帰る時にふらつくその体をささえてその軽さに
どうしてもっと早く無理にでも連れてこなかったのかと苦く思った。


検査結果の出るその日の午後は仕事を休むからと言っておいたのに。
家に帰るとあの人がいない。
少し癖のある字で一人で行って来るとメモがリビングンのテーブルの上に置いてある。
保護者同伴なんてガキじゃあるまいしとブツブツ言ってたのを思い出す。
倒れるまで医者に行かないのは十分ガキじゃないか。
どうして当の本人より周りがこんなに体の心配しなくてはならないのか。
その理不尽さに腹が立つ。
仕方なくイライラしながら帰りを待った。


いい加減帰ってきてもいい時刻を過ぎてもまだ戻らない。
あの人の事だからもしかしたら病院に行ってさえいないかもと電話してみると
もう大分前にお帰りになりましたと心なしか固い声で看護婦が答える。
我慢できずに病院までの道を辿りながらあの人を探す。


散々探して結局見つからず家に戻るとあの人がソファで寝ていた。
怒りと安心でどっと疲れてその場にしゃがみこむ。
言いたい事は山ほどあったがとりあえず水と一緒に飲み込んだ。
あの人が起きた気配がしたのでグラスに水を入れて持っていく。
まだ半分寝てるような様子で差し出した水を飲み干すとそのままぼーっとしている。
手をのばしてグラスを受け取るとやっとこちらを見たので聞いてみた。
検査結果はどうだったんですか?
ぐだぐだ言ってもしょうがないから誤魔化されないよう一番知りたい事を単純な言葉で。
あの人は少し首を傾げたあと、ああといった感じでまた目を閉じながら答える。
何でもないように。
淡々と。
だから何を言ってるのか頭に染み込むまで少し時間がかかった。


この人は時々酷い嘘をつく。
どんなに辛くてもなんでもないと平気な顔して言うから。
なのにこんな時ばかりどうしてその言葉が嘘ではないのか。
気が付くとあの人がこちらを見ていた。
何時の間にか手にしてたグラスが床で砕けている。
その様子を見て小さく笑った。
どうしてこの人はこんな時に笑うんだ。
怒れよ。冗談じゃないと言って。
泣けよ。嫌だと言って。
そんなふうに自分の命をなんでもない事のように笑うのはやめてくれ。



病院から戻るとあの人はまだソファで寝ていた。
ほっとしてすぐ側に座り込む。
オレの気配に気づいたのかうっすらと目を開けた。
具合はどうですかと聞くと眠いだけだと答える。
治療を受けてくれますねと聞くと黙ったままオレを見上げる。
面倒な事は嫌いなの分かってるだろう?とその目が言っている。
この人はどちらでも構わないのだ。
どうしたら心を動かす事ができるのか。
なんの躊躇いもなくいなくなろうとしているこの人の。


夜になってアイツが帰ってきた。
あの人がいたソファに座っていたらいつのまにか辺りが暗くなっていた。
いつも能天気なアイツがこちらを見るなりどうしたのかと訝しげな声で聞いてくる。
やはりどこか自分の様子がおかしいのだろう。
説明するのが億劫で拾ってきた封筒を指し示す。
神妙な顔で中の書類を読んでいたが、分からないから説明してくれと言う。
仕方なく先刻話を聞いてきた医者の言葉をまとめて教えてやる。
アイツの顔がみるみる険しくなっていくのが分かる。
そして納得できないと怒り始める。
ああ、そうだよな。これが普通の反応だ。
そう、もちろん決まった訳じゃない。
でも一番の問題は本人の気持ちだ。
やる気がなければ話にならない。


もう寝ているからと部屋へ行こうとするアイツを止めたその翌朝、あの人がいなくなっていた。



このまま帰ってこないつもりだろうか。
風の吹き荒れる曇天の下、あの人を探しながら考える。
あの人ならいかにもそうしそうだ。
いつかどこかで自分の知らないうちに死んでしまうぐらいなら、いっそ目の前で今すぐ。
その方がいくらかましな気さえした。
だいぶきてるかなと我ながら思う。
やがて風に混じる雨が土砂降りに変わる頃、携帯が鳴った。
アイツからの着信音。
ごめんと泣きながら言う声が聞こえる。


教えられた廃校舎に登ると屋上でずぶ濡れのままアイツが泣いていた。
あの人は?と聞くと、引き止めたけど行っちゃったと答えた。
そうか、そうだろうなと頭では思いながら胸の中が一瞬で冷たくなる。
アイツが慌てて言葉を続ける。
先刻の電話では要領を得なかったあの人の言葉をオレに伝える。
待っててくれと言ったと。
そんな台詞をあの人が。
あの気紛れで嘘吐きのあの人がそう言ったのならそれはきっと本気で言った言葉だろう。
だったらもうここでコイツと一緒に待ってればいい。
それ以外に何もしなくていい。
してはいけない。


後から考えても何があの人の気持ちをいきなり変えたのかさっぱりわからない。
でもきっと、あの雨の日にコイツがあの人を見つけなければ何も変わらなかったのじゃないだろうか。
子供のように泣きながら喋る顔を思い出しながら、とりあえずコイツの飯の面倒は一生みてやろうと思った。


あの日あの人は降りしきる雨の中、きっと濡れてしまったその体で一体何処へ行ったのだろう。
それがどうしても知りたくて。


調べるのは思ったより面倒だった。
本人に知られないように身内じゃない他人が怪しまれないように。
一度あの馬鹿がついてこようとした事があった。
帰れと言ったら睨み返してきた。
コイツは一人でいるのが嫌いだ。
人の手に噛みつくクセに誰もいないと寂しがって鳴く犬みたいだ。
夜には帰るからと言うと本当に?と聞き返す。
本当だ。エサの面倒をみなくちゃならない。


程なくしてわかった場所は二つ隣にある県だった。
横文字の聞きなれない施設名。
オレは毎週そこに通う。
何をする訳でもない。
車で片道3時間、着いても外で突っ立てるだけだ。
手持ちの煙草が切れたらまた3時間かけて帰る。
我ながら馬鹿だと思うがなにせ暇だからしょうがない。
平日は仕事があるからいいが休日は馬鹿犬のエサを作るだけじゃ時間が埋まらない。
考える事はやめてしまったから。
頭を空っぽにしてただあの人のいる場所を眺める。


そんな事を飽きもせず繰り返して3年経った。





朝驚いて飛び起きた。
それがなぜだか分からなくてしばらくベッドの上であたりを見回す。
今日は土曜だ。目覚ましも掛けてない。
時間を見るともう10時を過ぎている。
久しぶりに寝過ごした。
あの馬鹿が腹を空かせてオレを呼んだんだろうか。
でも今日は仕事じゃなかったかな。
少しづつ頭が動いてくるのと同時に先刻耳にした音が頭の中で再生された。
飛び起きて枕元の携帯を引っつかむ。
慌てて取り落としそうになりながら二つ折りのそれを開くとつい先刻の時間で着信履歴が一件。
ワンコールだけ鳴ったのはあるナンバーだけの設定音。
画面の履歴にはあの人の名前が表示されていた。


起きていきなりの全力疾走だから息が切れる。
適当に服を着けると家を飛び出した。
いつもと変わらない近所の風景。
確信はない。
でもきっと。多分あそこに。


なかなか開かない鉄の扉を蹴り飛ばして中へ入る。
後ろで派手な金属音がした。
きっと錆びた扉が外れたのだろうが知ったこっちゃない。
2段飛びで階段を駆け上がる。
くそっ、ここは何階あるのだったか。
踊場で足がもつれて派手に転ぶ。
チクショウと倒してしまった何かを蹴ってどかしながら上を向くと
屋上に通じる扉が少しだけ開いて細長く青い空が見えた。
それを押し開いて屋上に飛び出す。


あの人がいた。


開いた扉のちょうど正面、建物の向こう側の端に。
手すりにもたれこちらに背中を向けている。
見慣れない黒い髪。
でも間違いない。
以前より短いそれを風に乱しながらあの人がゆっくりとこちらを向く。
オレを見ると口の端を少し上げて笑った。


なんだか夢の中のように体が思う通りに動かない。
足を一歩、踏み出そうとして力が入らずそのまま前のめりに膝をついてへたり込んでしまった。
あ、まずい。
俯いてしまった。
一度外した視線を戻せない。
もし顔を上げて誰もいなかったらどうすればいいのだろう。
その後また今まで通り何も考えずに過ごす自信がない。
何やってんだ。馬鹿かオレは。
とっとと顔を上げろ。
くそ。


カツッと小さな音がした。
その音が一定のリズムでもってこちらに近づいてくる。
ああ、足音だと思ったらすぐ前に人の気配を感じた。


動け。早く。顔をあげろ。


ふーっと吹きかけられた煙に甘い匂いがした。
瞬間、呪縛がとけて体が動いた。
目の前にいた。
すぐそばにしゃがみ込んで煙草を吹かしながらこちらを覗き込んでいる。
オレと目が合うとちょっとびっくりしたような顔をしてそれから。
久しぶりだとくらくらするな?と言って笑った。


緋咲さん緋咲さん緋咲さん緋咲さん緋咲さん…


3年間、口にしてなかったその名を叫ぶ。
そんなオレを見てまたちょっとびっくりした顔をすると何故か可笑しそうに笑い出した。
そんな笑顔、以前だってめったに見たことないですよ。
なにが可笑しいんです?
オレはくらくらどころか気絶しそうです。
そう言ってやりたいが言葉にならない。
ひとしきり笑ったあの人が煙草を指に挟んだまま片手で髪を抑えながらこちらを見ている。
何か言わなくては。
そして答えて貰わないと。
どうかもういなくなってしまう事のないように。


緋咲さん。
ん?
煙草やめてください。


一瞬眉を顰めて沈黙する。
そしてチラリと手に持った煙草を見てからじゃあ最後の一服なと言いながら空に向かって白い煙を吐いた。











空を見上げるとやたらと青い。
その下を歩くのはずいぶんと久しぶりな気がする。
ゆっくりと見慣れた道をいくとやがて右手に寂れた建物が見えてきた。
これまだあったのか。
どういう事情だか知らないが廃校になった校舎は取り壊される事もないままその場に残されている。
3年前にはなかった周りを囲む金網を破れ目からくぐってみると
屋上に上る階段室の扉には鍵が掛かっていないままだった。


少し高台にあるその校舎の屋上からは懐かしいアパートが見えた。
手摺りにもたれながら途中で買った煙草をとろうと胸のポケットを探る。
目当ての物の前に携帯が指に触った。
ああ、もう歩くの面倒だなと思ったので久しぶりに電源を入れた。


吸った煙をゆっくりと吐き出すとあっと言う間にそれは風に散らされて消えていく。
コレこんな味だったかなと思ってると少し遠くで何かが倒れる音がした。
先刻携帯を掛けてからまだ10分もたってない。
だからまさかなと思ってそのまま煙草を吹かす。
しかし続いて誰かが階段を駆け上がってくる音が近づいてくる。
ガンガンと続いてた音が一瞬切れてまた何かが倒れる音がした。
あ、コケたな。
何か短く罵るような声が聞こえた。
ああ、やっぱりあの馬鹿だ。
そう思った瞬間、屋上の扉が開かれるのを背中で聞いた。
ゆっくりと振り返る。


思ったとおりアイツが間抜け面してそこに立っていた。


こちらにこようとしたらしいが、すぐ崩れるように膝をついてしまった。
そしてそのまま俯いて動かない。
なにやってんだ、アイツ。
しばらく待ったが動かないので近くまで行って顔を覗き込む。
それでも動かない。
なんだ?先刻頭でも打ったのか?
煙草を吹かしながら目の前の男を眺めているとその俯いた首筋に骨が浮くのが見えた。
痩せたなコイツ。
オレより痩せてるんじゃないかと思うその体を見てほんの少しだけ心が痛んだ。
なんだかずいぶんとコイツの為に何かをしてやったような気になってたけれど。


しかし固まったままのコレ、どうしてくれようかと煙を吹きかけてやると
それまでピクリともしなかったヤツがいきなり顔をあげた。
少しやつれた気はするものの3年前と同じ無愛想な面だ。
久しぶりだとくらくらするな?
そう声を掛けると何か言おうとしたのか口を動かすが声になってない。
そうして黙ったままいきなり泣き始めたのでびっくりした。
涙がぼたぼたと床に落ちる。
なんだコイツは。こんなに盛大に泣けるヤツだったのか。
もう一人と違ってコイツの泣き顔は本当に初めてだ。
珍しいモノをみてしまった。
せっかくいい天気なのにまた雨でも降ったらどうすんだよ。
ああ、なんて顔するんだ。
笑わすんじゃねーよ。


ようやく笑いが収まった頃に何か言う。
よく聞こえなくて聞き返すと
煙草やめてくださいと擦れた声でつぶやいた。
コイツ、オレの心見透かしてんじゃないだろうな。
普通なら鼻で笑って終わりだけど。
珍しいモノ見せてくれたから聞いてやってもいいかなと思ってしまった。


人生最後の煙草を思い切り吸って吐き出した。










昼に仕事が終わって家に帰る。
今日は土曜日だからアイツはいないだろうけどまっすぐ家に向かった。
何か作っておいてくれてるそれを食べて、その後は何をしようかな。
考えながら誰もいない筈だけどいつもの癖でただいまーと言いながらドアを開けた。
中に入ると何故か人の気配を感じる。
もしかアイツがいるのかと不思議に思ってリビングにいくと
緋咲さんがソファに寝転びながらこちらをみておうと小さくうなずいた。
土屋もキッチンから顔を出しておかえりと言う。


あれ?なんで?
オレ土曜で仕事が半ドンでそんで家に帰ってきたトコじゃなかったけ?
なんで昨日の夢の続きが突然はじまってるんだろう。
もしかオレ寝っぱなしなのかしらん。
よく分からなくなってぼーっと3年前そのままの風景を眺める。
緋咲さんがこちらを見たまま首を傾げている。
なんかやっぱ夢みたい。
でもこの夢の為なら寝坊してもいいや。
なんでだか緋咲さんの髪が黒いけど、それも面白いし。
などと思いながらニヤニヤしてるとドンと背中を肘で突付かれた。
振り返るといつのまにか後ろに土屋が来ている。
なんだよ、目が覚めたらどうすんだよ?とむっとしてると
土屋はオレを見下ろしながら本物だよと言った。
その時土屋の目が赤いのに気が付く。
え?
慌ててもう一度振り返る。
緋咲さんがソファから起き上がりながらいい子にしてたか?と言って笑った。


後から聞いた話だけど土屋はテーブルやサイドボードの上の割れ物をよけておいてくれたらしい。
さすが土屋だなぁと感心しながら頭のコブを撫でてると
いきなり突進してくる方が悪いんだからなと緋咲さんが言った。




よく晴れた空に飛行機雲がひとすじ白く流れる。
あの人が笑いながら窓の外を見上げてまた今度な?と誰かにつぶやいた。





























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(チイ)
緋川さんの仰られるトコロの「三文芝居的メロドラマ」。
てゆーか、こんなお話が書けるとはスゴイな〜と思ってしまう!
この話の後日談の改造版が「My favorite」という訳なんですね〜〜。
そう思って読むと、「My favorite」がますます幸せ一杯な感じがしますよね。
だから土屋の拘りは健康志向です!(笑)

それにしても生きてるって素晴らしい。


(2004.11.15)
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